早良高校 家庭クラブ

 学校家庭クラブ活動とは、生活を科学的に探究する方法や課題解決能力を高め、これからの社会を生き抜く実践力と想像力を養うことを目指した家庭科の教科活動の一つです。学校家庭クラブ活動では、4つの精神(創造・勤労・愛情・奉仕)を活動の柱として、「研究活動」「ボランティア活動」「交流活動」を行います。

 活動を通して、人と人とのつながりを深め、思いやりの心を育てることを目指します。

活動報告

  

調査・研究

早良高校と脇山米

 現在、早良高校のスポーツコミュニケーションコースの生徒達は、お田植祭の日に地域の方々や小学生達と一緒に田植えを行い、秋には稲刈りを行わせていただいています。地元の脇山米について知る取り組みは、地産地消や地域振興に繋がることです。家庭クラブとしては、地元のことを知り、共有していく活動を通して、地域の皆様に支えられて過ごしている学校生活を生徒全員が理解できるように考えます。

 本年度、本校は創立40周年を迎えていますが、創立30周年の体育祭において、地元の方々にご協力いただき、衣装も着せていただいた3年生女子と1・2年生女子の全員で、お田植舞を踊りました。

 昨年、本年と、生徒は脇山米を広めることができないかと取り組んでいます。令和10年に昭和の大嘗祭に脇山の米が献上されてから100年目を迎えるにあたり、口伝と文献等でわかっていることを少しずつでもまとめています。お詳しい方がいらっしゃいましたら、さらにお教えくださいますと有難く思います。

そもそも脇山米とは?

 早良高校の周辺地域を脇山と言います。背振山のふもと、福岡市早良区南都は、盆地のため、昼夜の寒暖差が大きく、背振山ろくから流れてくる清水にも恵まれ、美味しいお米が昔から作られています。

昭和の大嘗祭の主基斎田(献上米の産地)に選ばれた歴史があります。大嘗祭とは、天皇が即位後初めて行われる特別な新嘗祭のことです。

大嘗祭とは、天皇一代に一度だけ行われる皇位継承の儀式であり、その年の新穀を神々に供え、天皇も食することで、五穀豊穣と国家の安寧を祈願するというものです。この大嘗祭で献上される神饌神酒の材料となる新穀を作るのが「斎田」です。この斎田は、宮中神殿にて亀卜(きぼく)により、国内から二か所選ばれます。京都以東から選ばれた斎田を悠紀斎田(ゆきさいでん)といい、西から選ばれた斎田を主基斎田(すきさいでん)といいます。

昭和天皇の即位の礼は1928年(昭和3年)11月10日に執り行われ、大嘗祭は1928年11月14日~15日)に京都で行われました。昭和天皇即位にともなう大嘗祭では、悠紀斎田に滋賀県野洲郡三上村(現在の野洲市)、主基斎田には福岡県早良郡脇山村(現在の福岡県福岡市早良区脇山)が選ばれました。当時、福岡県は、主基斎田に県内の優れた米の産地の中から脇山を選出したそうです。

御縁あって、石津(田主の娘)さんにもお話を聞かせていただきました。

選出された田には湧水があり、清水が直接に注がれていたそうです。また、種籾として「昭代」という品種が使われたそうで、地名としてある「昭代」との関係を知り驚きました。

成育した苗を斎田に植える際には、御田植祭が開かれ、神事のほか、八女舞や、当時の村民による御田植舞も披露されたそうです。八女舞という舞は、現在、地元にその衣装は保管されているそうですが、舞自体は伝承されていないとのことでした。

苗を植えた斎田の周りの田は休田し、問題が起きないように監視も毎日ついていたそうです。害虫の発生などにも気を使っていたと教えていただきました。当時の人々が丁寧にこの米を扱って育てていた様子が動画で残っているそうですが、福岡では「早乙女」などがもてはやされ、さまざまなグッズが販売されている様子も記録に残っています。また、斎田を見たいという人達が脇山まで訪れていたようで、お土産販売の話の記録もありました。

令和の大嘗祭では選出された田主に金銭的な補助があるようですが、世界大恐慌の真っ只中で企業や福岡県や福岡市も財政難だったため、私財を投じて主基斎田としての責務を果たすためにやりくりが大変だったそうです。悠紀斎田に選出されたお家は無事かわからないが、どうにか無事今も生活できているので良かったと伺いました。ニュースなどでそういった斎田に選ばれた家に強盗等を行う人がいるという話も耳にしたので、「斎田に選出されて名誉なことかもしれないけれども大変ですね」と話をしていたら、破産かもしれないと危惧しながらも、さまざまな役職の方々や警護される方々の接待や道の整備に努めた話などを石津さんから伺いました。私自身、時代背景の違いを踏まえて物事を理解しなければならないと考えさせられたとともに、粛々と節制しながら石津さんが神事に務めながら、支えてくださった方々への恩義を強くお持ちな理由も少し理解できました。

大嘗祭のために収穫された米を主基斎田のある脇山から京都へ運ぶために、1925年、西新町駅が造られました。そして、脇山から西新までの道が整備され、今でも西新に「脇山口」という地名があります。西新からは、新たに造られた列車にて供納米は一路京都へ向かったそうですが、現在と異なり、まだ本州と九州は鉄道でつながっていませんでした。そのため、関門海峡は船で渡ります。そして、再び、供納米は鉄道にて京都駅へ向かい、京都御所に運ばれて行きました。ある意味で、早良区の発展に少なからず関わっている出来事だったのではないでしょうか。現在、主基斎田の跡地は公園になっています。石津さんから湧水は塞がれているのではないかと伺い残念に思いましたが、脇山にはよく見ると、湧水が出ている水田があります。

美味しいお米ができるためには、水が豊かで、水はけが良い土壌を持ち、昼夜の寒暖差が大きい土地という気候と環境の条件が重要だそうです。今でも美味しいお米を育てている農家の皆さんのお陰で、脇山米は知る人ぞ知る美味しいお米として地元の飲食店でも使用されています。

 現在、本校スポーツコミュニケーションコースが地域の方々との活動として、田植えや稲刈を行っています。今後、脇山米を生徒達が食する機会を作ることができればいいなと思っています。

 このように発信をさせていただくことによって、生徒達が脇山米についてさらに学ぶ機会が生まれると有難いと思います。

出典:『大嘗祭主基斎田写真帖』 福岡県 1928年

(国立国会図書館デジタルコレクション  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906703

ごぼ天うどんと早良

 福岡と言えば、ごぼ天うどんを知らない人はいないくらいのものですが、他県にはなじみがないものでした。しかし、今や福岡のうどん屋さんが日本全国にチェーン展開しているので、日本全国でも認知度は上がってきているのではないでしょうか。

 ごぼ天うどんのルーツは、明治後期から昭和初期にかけて福岡の天神にあった「乙ちゃんうどん」とされています。この「乙ちゃんうどん」のご主人は、大阪で修業をして、福岡でうどん屋さんを始めたそうです。店先でいわし天・いも天・ごぼう天などの天ぷらを揚げてうどんにのせて提供したのが始まりで、特にごぼう天は評判を呼んで、多くの店がメニューに加えることで博多の代表的なうどんメニューとして広まったそうです。戦時下の食糧統制の中で1943(昭和18)年に閉店し、ご主人は戦死されたためか、戦後に復活することはなかったそうです。

 「乙ちゃんうどん」を辛子明太子を製造している「ふくや」が、2017年から2018年にかけて催事限定で復活させています。「乙ちゃんうどん」のごぼ天は、揚げる前に出汁で下味をつけたごぼうを使用しており、しっかりと旨味がしみているのが特徴だそうです。このプロジェクトに取り組まれた方に伺ったお話では、早良の醤油屋さんの近くに太くて美味しいゴボウを作っている人がいたそうです。そこからゴボウは買っていたらしい…とお話を伺いましたが、現在ゴボウの生産農家さんがいらっしゃるのかも不明です。また、早良の醤油屋さんとは恐らく教えていただいた場所から「ヤマタカ醤油」ではないかと思いますがいかがでしょうか。

 このように発信することで、詳しい情報が集まると嬉しいです。